水平線

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手術の際に目の中に入れられたガスは、毎日少しずつ抜けていく。保護のために左目には金属製の眼帯(ギッターやカッペと呼ばれるようだ)を付けていて、朝の診察と1日3回の点眼の際に外す。その都度手のひらを見て、左目の見え方を確認した。手術後2日目は目に手を近づけてやっと輪郭がわかるくらいにぼんやり見えるだけだった。その時書いたメモを見ると、「真ん中に薄暗い丸い影、横の方が比較的クリア」とある。

毎日、朝6時半に目薬をさし、7時台に朝食を食べ、8時台に検診を受け、11時に昼の目薬、12時に昼食、16時に夕方の目薬、18時に夕食、そして22時に就寝という生活を送った。点眼は、入院患者が食堂に集合して、全員で看護師さんの号令に従って行う。それぞれの状態によって処方されている目薬は違い、それらを自分の前に並べて、3分間隔で順にさす。一度にたくさんさしても、目に入らず流れてしまうだけなのだそうだ。うまくさせない人は看護師さんがもう少し右、というように指導してくれる。

目薬をさす瞬間は真上を見る。少しずつガスが抜けていってるので、上を向いた瞬間だけガスが充満していない世界があることがわかる。少しクリアな視界の中、目薬の位置を確認して一滴落とす。うまく入ると視野が滲む。上を向くことに背徳感があるので、すぐに俯いて目を閉じ、長く感じる3分を待つ。

手術後3日目のメモを見ると、「目の中央はぼんやりしている。横の方がクリア、中心部に黒い丸い影、水面のようなものが下がってきている」とある。ガスと透明な水分との境界線が徐々に下がってきて、大体1週間くらいで半分、2週間でほぼ抜けると聞いていた。期間は入れたガスの種類によって違う。半分抜けた頃に診察して、黄斑の穴が塞がっていることが確認できたら退院許可が出る。私は毎日の診察でも問題はなく、経過は順調なようだった。

同じ病室の人たちがその境界線のことを「水平線」と言っていて、私もそう呼んだ。水平線が下がってくると、その線より上が透明、下がぼんやり、というのがはっきりとわかる。実際は目の中の上部にガスがあり下部に透明な水分があるのだが、見えているものは逆さまになっている。だから、本当は目の中に透明な水が満たされるのを待っているはずなのだけど、底に溜まった濁った何かが砂時計のように徐々に減っていくようにしか感じない。

1週間たった頃、ちょうど目の中央付近にその水平線はあった。朝の診察と検査で穴が閉じていることが確認できたと言われ、その日のうちに私は退院となった。同室で色々教えてくださった上品な70代の女性は、眼圧が上がったり不調が出て入院が伸びていたが、優しい笑顔で私の退院を喜んでくれた。

入院中は、下の子供の面倒を見るために実家から母が来てくれていた。母と家に帰った後、夕方近くに散歩がてら1人でスーパーまで買い物にでた。歩くと、水平線が揺れる。足元が見えないし、じゃまだな、と、日常に戻ってから改めて思った。目の中に何か別の世界があるような不思議な感じがした。

午前中にはちょうど中央だった水平線は、またほんの少し下がっていて、景色が注視できるようになっていた。薄暗い外から明るい店内に入ると、店内が不自然に眩しかった。左目で見えるものが過剰にキラキラしている。白内障の手術も同時に受けたせいだろうか。画質調整で色や諸々のパラメータを少し強められたかのように、人工的に映る。

買い物かごを持ち店内の商品を選ぼうとした時、私は、自分の左目にまだ歪みがあることをはっきりと認識した。ちょうど、穴が開く直前くらいの歪み方だろうか。見ようとした部分が内側に波打っている。

手術を受けても歪みは完全には治らないことは聞かされていたし、穴が開く前に戻れるならそれでいいと思っていたはずなのに、そうだということが明らかになると、やはり少しはダメージがあった。私は、空の買い物かごを持って店内をうろうろしながら、時折右目を隠しては、左目の水平線の上にある眩しく歪む店内を、何度も確認していた。