ひにちぐしゅり

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

黄斑円孔の手術の後の3日間はうつ伏せでいないといけなかった。寝るときはもちろん、起きているときもずっと下を向く。目の中のガスが上に行こうとする力で、黄斑にできた穴が塞がるのだという。上を向いていいのは、汁物を飲むときと、 1日3回目薬をさすときだけと念を押された。

病室でのスマートフォンの使用は黙認された。左目は眼帯のようなものをつけていて見えないし、通信量も節約したいので、podcast を聴いたり、ストレージに残っていた音楽を聴いたりしながらうつ伏せていた。夜ももちろん熟睡などできないのだが、この三日間の頑張りで視力が戻るのだと思って耐えた。

病院にはいろんな目の病気の人が入院していた。下を向くのは網膜剥離や黄斑円孔などで硝子体手術を受けてから3 日以内の人たちだけなので、白内障や緑内障の人などは下を向いていない。全体的に患者は概ねひと世代上の人たちが多い。

朝は入院患者が全員一列に並んで診察の順を待つ。私は、移動の際は下向きで廊下を歩くし、診察を待つ間も下を向いている。だから患者さんの顔はよくわからず話し声だけが聞こえる。その中に、1 人よく喋る人がいた。典型的なお婆さんの話し方。さしすせそがシャシシュシェショ、たちつてとがチャチチュチェチョと聞こえる。同じようなことを何度も言う。私は自分の母より年上の80代くらいの人なんだろうなと思っていた。

同室の人の話ではその人は手術後の経過が悪くて再手術になったことが不安なのか、他の人をつかまえては、自分は帰らんとあかんと繰り返すらしかった。確かに食堂での食事の時も、目薬タイムにみんなで目薬をさすときも、そんな感じのことを言ってた気はした。驚いたのはその人はその同室の人より年下で、 60代なのだそうだ。

私のうつ伏せ寝が最終日になろうとしている頃、その人が私の隣のベッドに移動して来た。うわさに聞いていたように、看護師さんに同じようなことを何度も言う。看護師さんがいないときは、よく何か独り言を言っている。私に話しかけているのか判断がつかないので、私は申し訳ないけど完全にスルーした。独り言は夜中まで続いた。ただでさえ眠れないのにまあまあに過酷な状況ではあるな、とは思ったけれど、うっかり熟睡して仰向け寝になってしまうことが無くていいのかもしれない、と思うことにした。

その人が看護師さんに何度も言っていたのは、標準語で書くと、うつ伏せだと寝られない、いきなりの入院で困った、犬がいるし旦那は仕事があるからいつ帰れるのかと言われている、 早く帰らないといけない、自分はいつ退院できるのか、といったこと。その度看護師さんは丁寧に同じようなことを答える。いますぐには帰れないけど、目が大事、というような内容。看護師さんの説明を聞いた後、最後にその人は自ら「日にち薬」と言う。

「日にち薬」と言う言葉は私はあまり使ったことがなかったのだけれど、入院してから先生が他の人にかけている言葉の中に何度も出てきていた。要するに時間が治してくれる、ということなのだが、それが決め台詞のように使われる。患者さんはそれを素直に受け入れる。多分私が言われたとしても受け入れるだろう。いつかは治ると信じたいから。

日にち薬。その人はその自分の言葉を看護師さんに肯定してもらって、不安を取り除こうとしていたのか。その時はとりあえず納得したような様子を見せるが、看護師さんが来るたび、同じ流れを繰り返していた。その人が患った網膜剥離は私の病気と違って緊急入院になるから、いきなりのことで困ったことも多いのだろうし、再手術になるストレスも想像できる。だが、「うつ伏せだと寝られへんねん」という言葉に関してだけは「知らんがな」と思っていた。

結局その人は、私のうつ伏せ寝が解除されたあとに強引に退院していった。あれから数ヶ月。あの人の日にち薬は効いたのだろうか。