葉奈子ちゃんのにおい

 私の家の斜め前に渡部さんという雑貨屋さんがある。雑貨屋のくせに地味な家族で、あまり店も繁盛していない。一人娘の葉奈子ちゃんは私と同い年で、保育園からずっと一緒だから良く知っている。成績が良くて無口なおとなしい子だ。私も、別に嫌いじゃない。でも、渡部さん親子と「玉の湯」で会うのが、私は小さい頃から嫌で嫌でたまらなかった。
 何故かというと、あの人たちがいる時は、いつも風呂場全体に変なにおいがするのだ。妙に酸っぱいような、つんとしたにおいだ。狭い銭湯なので、そのにおいはたちこめてしまう。ただでさえ、土地や老人のにおいてくさいのに、あのすっぱいにおいがそれに加わるととても耐えられない。特に、「玉の湯」に行ったら渡部さん母娘が湯上がりで扇風機にあたっていた時なんて最悪だ。渡部さんちのおばさんは、しかも太っている。
 でも、いくら嫌いでも風呂に入らないわけにはいかない。だから私は、なんとか会わないように工夫をしていた。あの家は8時台が多いので、私が7時台に行くようにすれば会わない。私の努力で、最近はほとんど「玉の湯」で顔を合わせていなかった。
 しかし、私の母の話だと、中学三年生になってから葉奈子ちゃんのにおいは変わってきているのだそうだ。「女のにおいが混ざって甘酸っぱくなった」ということである。私はその「女のにおい」というのが少しうらやましい気がした。葉奈子ちゃんは私よりもずっと女らしい体格をしている。それはあそこのおばさんが太っているせいもあるかもしれないが、本当はああいう女っぽさというか色気というかに憧れている部分が私の中にもあったので、私はわざと会うような時間に行ってみることにした。

 「玉の湯」で会った時、葉奈子ちゃんは「あれえ」といって手をふった。いつもは手をふるような子じゃないのに、その日は妙に明るくて、私は今までわざと避けていたことに少し胸が痛んだ。おけを取ってさっそく葉奈子ちゃんの隣へ行った。目的をとりあえず果たそうと思った。葉奈子ちゃんは頭を洗っていた。最初のうちはよくわからなかったが、そのうちだんだんその「甘いにおい」というのがわかってきた。確かに前のにおいとは違う気がした。前のは酸っぱくて鼻の奥に鋭いにおいだったけど、その時のは何というか、酸っぱくてべたべたする感じだった。でも、もしかしたらシャンプーかリンスのにおいかもしれないとも思った。私は葉奈子ちゃんがリンスを終った様子だったので、そのリンスの香りの種類を聞いてみた。
 葉奈子ちゃんはその日は本当に明るかった。私の質問を聞いたとたん、急に嬉しそうな顔になり、弾んだ声で言った。
「えへ、わかる? あのね、この中にね、ちょっと試しにバニラエッセンス入れてみたんだ。ねぇ、ねぇ、におい、かいでみて」
 そして、葉奈子ちゃんは、私に向かって小びんをさしだした。あんまり見たことのないリンスのびんだな、と思ったけれど、葉奈子ちゃんちは雑貨屋だから、きっと何でもあるんだろうと納得して、それを受け取った。実は私はバニラエッセンスというのをよく知らなかったので、どんな香りなんだろうと期待していた。でも名前からして、おそらくバニラアイスのようなものではないか、と想像した。私は頭にアイスクリームを描きながら、その小びんにゆっくりと鼻を近づけていった。
「ね、バニラエッセンス、わかった?」
 そう言って葉奈子ちゃんは、にこにこしながら私の顔をのぞきこんだ。ねー。バニラエッセンスでしょー。と、何度も繰返して、笑っていた。
 私はその時、思いもよらなかったにおいを力いっぱい吸い込んだ。「えっ何?」という感じと、横ではしゃぐ葉奈子ちゃんへのとまどいですっかり混乱していた。でも、とりあえずほめなきゃと思って、「わーっすごーい。いーなー。いーなー。さすが雑貨屋あ」と言ってびんを返した。葉奈子ちゃんは「やだあ」と笑って湯船の方へ行った。私はその後しばらくそのままぼーっとしていた。
 その時のにおいというのは、バニラアイスの腐ったにおいというもので、どうしていいのかわからないくらいきついにおいで、生まれて初めてかいだにおいで、鼻が一瞬にしてばかになっていた。とにかくあれは葉奈子ちゃんと渡部さんのおばさんのにおいをてっぺんからつま先までかぎつくしたような、そんなにおいだった。そう思ったら吐き気がしてきて、私は、何が女のにおいだ、くさいじゃないか、と、母に文句を言ってやりたかった。もう二度とこの時間帯には来ないぞと決意し、それからはいつもの時間帯に戻した。その日から全然、渡部さん母娘と「玉の湯」で会っていない。

 これは、かなり後になってからわかったことなのだが、私の家の斜め前の渡部雑貨店のおばさんは「エコロジー」に非常に関心の高い人で、時々、町へ行って消費者運動に参加したり、講演を聞いたりしていたのだそうだ。自分の雑貨店ではエコロジー関係のいろんな天然材料の製品を扱っていたらしく、葉奈子ちゃんも子供の頃から、合成シャンプーではなく石鹸シャンプーを、合成のリンスのかわりに普通のお酢を使っていたらしい。
 そういえばずっと昔、葉奈子ちゃんが「かあさんに怒られる」と言って、一人で駄菓子を買わないで気どっていたからという理由で仲間はずれにしたことや、弁当に絶対ソーセージが入っていないのでみんなが同情して、時々おかずの交換をしていたというような、記憶がある。


 「ビックリハウス」 1985年8月号掲載。
 第20回エンピツ賞を受賞した作品を一部書き換えました。やっぱり今読むと、当時「ビックリハウス」向けだと思い込んで書いていたふしのある部分に、若干抵抗があったので。
 審査員が誰も◎をつけていないのに、他が低調だったのか、エンピツ賞を頂いた特殊な受賞です。ビックリハウスが休刊する3号前の号です。
 連載させていただいたり、エンピツ賞受賞作品を近藤ようこさんに漫画化していただいたり、今思うとかなりチャンスをいただいたような気がするのですが、私はあまりにも普通だったので、今から思うと申し訳ない感じです。多分私のところへ来たのは一種の事故みたいなものだったのでしょう。最後のエンピツ賞を受賞した人が第2の鮫肌文殊さんになれるような個性のある人物だったら、もしかしたらその後の流れが違ったのかもしれない、と、ずっと思っていました。
 余談ですが、この作品は内田春菊さんが挿絵を書いてくださいました。その時のことを内田さん本人が「ビックリハウスは乳首NGだった」と、ずっと後に何かの雑誌で語ってたのを読んだ記憶があります。