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去年の暮れに小山君がエブリィを降板することが発表された時は喪失感があった。前も書いたように私は小山君のファンとは言えないのだけれど、選挙特番のような硬い番組に溶け込んでいる様子を録画で確認してニコニコしていたことなどを、寂しい気持ちで思い返していた。

去年、ぼんやり検索するとNEWSの悪口と小馬鹿にしたようなツイートばかりを拾うようになってしまった時期、私は対策として、キーワード検索をやめ、「人の悪口を言わない前向きで理性的な小山担」と感じた人たちのツイートを選んで読んでいた。

あの頃私は一連の出来事に納得できていなかったのだと思う。いろんな立場の人が軽い理解で「自業自得」程度のことをさらっと書いているのも見たくなかったし、ショッキングなネット記事の見出しをリツイートするファンも見たくなかった。有名ジャニオタと言われるカテゴリの人が、彼らの歌にからめたタイトルで、冷静に分析する風に彼らがいかに良くないかをブログに書いていたりするのを目にした時は、最悪なものを踏んだと思った。

もやもやとしていた。

彼らが好きすぎるためだろうか、私自身が責められているような気持ちでいた。遊びや職場を含め過去多くの飲み会に顔を出して色んな人を見て、全ては状況によると思っているところもあったので、厳しすぎる言葉や馬鹿にする言葉を受け入れられなかった。実際私も制止するほどの悪質な場面にでくわしたことがなかったし、それと同時に、どんな飲み会でも常に私じゃない誰かが、場を盛り上げようと頑張ってくれていたことなどを自分に置き換えて思っていた。いくらそんなことを感じたとしても、揃えられた記号としてはこうならざるを得ないことも理解していた。揃えられてしまったこと自体を重大な過失と幻滅してファンが非難することを、仕方がないと思うしかないのかもしれない。

初めてNEWSのライブへ行った時に、私は客席の女の子たちが細部にまで気を使い着飾っているのが新鮮だった。それは屋外のライブで自分の席が空に相当近い場所だったということもあるけれど、遠くにいる4人のNEWSと、復活を心から喜ぶ周りにいる大勢の可愛い人たちに囲まれて幸福な気持ちでいた。それはとても綺麗な光景だった。

それから何度もコンサートに足を運んできたが、いつも客席の子達はとびきりに着飾っていた。でもそうやって現場では細部まで完璧に見た目を仕上げている(かもしれない)人達が、ネットの中では全く身なりにも気を使う様子もなく、特定の人へ汚い言葉を吐き続けている。

汚いものを汚いと認識した上で観察することは嫌いじゃない。人間の暗部に興味を持ってわざわざ見に行くことはある。でも、日々の汚れに塗れた時間から離れて、綺麗な小石を集めたいような気持ちの時には、それは目にしたくないものだった。

私は罵声をくぐるように小山君のファンたちの様子を見に行った。彼女たちには、理屈ではない「慶ちゃん大好き」というパワーがあった。時折辛い気持ちが見え隠れすることはあっても、ポジティブな方向へ振り切ろうとしているようだった。そういう人達の、いいね、や、リツイートされている他のツイートを辿ると、殆どの人が前向きで愛に溢れている世界が見えた。

私には資質がないので、ストレートに愛を語っているツイートはいつもつい外野のような視線で眺めてしまう。私はその輪に入れない。関心、テンション、嗜好、何もかも傾向が違っていて、私が無理をして言っても全部嘘になる。でも、辛い状況であってもきちんと身だしなみに気を使い、できるだけ着飾り、全力で愛に溢れるうちわを掲げる彼女たちを眺めていたいと思った。とても綺麗だったから。

しばらく個人でのテレビ出演が無かった小山君が、先日久しぶりにパネラーとして単独で特番に出演していた。私はもしかしたら言われているかもしれない悪口を素通りし、彼女たちの歓喜のうちわだけを見に行った。私は小山君のファンではないけれど、多分小山君のファンのファンだ。