映画「ピンクとグレー」を見た日(ネタバレあり注意)

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 いくら情報やネタバレを避けていても、「後半が全くのオリジナル」という事前情報や、「62分後の衝撃」というキャッチコピーから、ある程度の予測はできてしまっていた。もしそういうものがなくて、さらに原作を読んでいなかったら、私はこの映画の捉え方がまた別のものになっていたのかとも思うが、よくわからない。

 映画を最初見た時、私は特に前半に退屈していた。それは原作を読んでしまっているから、ああ、こう変わったのか、という見方しかできなかったのもあるが、それと同時にそこに映し出される青春映画に対しても「なんだか嫌」としか思えないのだった。

 思春期の性衝動の描き方、引っ越しの演出、喫茶店や芸能事務所のやり取り、エキストラくらいの立場で就職せず上京してくる浅はかさ、りばちゃんがサリーを押し倒して結局同棲したそのあとのだらしなさ。

 そんな、私にとって「なんだか嫌」なことが次々来る。前半が原作通りと言われたら、原作、巻き込まれ事故になりかねないのでは?などと思っていた。ちなみに私はある種の心の病で、ピュアだったり衝動的だったりする「青春」が直視できないタイプの人間なので、要するに苦手の詰め合わせだったような気もする。
 そして見ながらふと、ああこのまま、私が原作で好きだったシーンは全部ないんだなあ、と寂しい気持ちになった頃、物語はグレーに変わった。

 グレーになってしばらくが一番面白いのは間違いない。パラレルワールドのような感覚。私は岸井ゆきのさんが出てきた時に感じたなんとも言えない「リアリティ」が、強く印象に残った。
 そして種明かしが終わった後、前半ほどではないが「なんだか嫌」な展開がまた起こり始める。
 青春って、そういうことなのかな。衝動なのかな...。

 私は前回書いたみたいに、原作と同じ展開はまったく望んでいない。「死」については原作とは違っている映画を望んでいた。大人だから。

 でも、この映画で描きたいことは、見ている人に伝わるのだろうか。
 少なくとも私は柳楽優弥の顔立ちの存在感とラストの音楽の力で丸め込まれて放り出されたような感覚に陥っていた。わからないなら「それでいい」。しょーもな、と言って気にしないで生きていけということだろうか。
 私は原作との違いを気にして見すぎて映画独自のメッセージを汲み取れなかったのかもしれない。

 私は数日後の空き時間に、もう一度映画館へ行った。

 前半の青春映画でりばちゃんがごっちを演じていると思って見ると「りばちゃんごっち役うまいな」となる。りばちゃんのつけているごっちの仮面が剥がれているのか?と深読みできるのは、やっと与えられたチャンスに失敗するりばちゃんを見る時の表情くらいなので、これだけの演技力があったら、りばちゃん立派に俳優としてやっていけるよ、と、励ましたくなってしまう。(これも、62分後の衝撃を重視した演出なのだろうけど)
 そして、「あえて下手に撮りたかった」と監督が言っている、よくある青春要素が詰め込まれた前半を(私は)我慢して見ているのに、その我慢が後半あまり報われない。前半は結局映画の中の話で誇張された偽りばちゃんなのだから、リアルりばちゃんは誇張された自分を見てもっと不快感を持っていいんじゃないだろうかとも思うけど、そんなこともない。

 監督がインタビューで答えていた「映画にするときは登場人物のIQを少し下げる」話を思い出すと、きっと前半のりばちゃんは後半のりばちゃんよりIQが低いから、小説のりばちゃん>後半のりばちゃん>前半のりばちゃん というIQ関係になっている。後半のりばちゃんは監督設定値で「誇張されてる自分に不快感を持たないが、本は書けるくらい」のIQになっているのかもしれない。さらにIQの低い前半のりばちゃんは「本も書けそうにないし、何も考えず衝動で生きている」っぽいのも仕方ないのかもしれない。うーん。私ちょっといやらしいな。

 実は、ほとんど映画館に足を運ばない私が同じ映画を映画館で二回見るのは、30年前に見た『田園に死す』以来だった。(私はそれを高野浩幸目当てで見に行ったので、ピンクとグレーを見に行った中島君ファンと変わらないのだが)
 『田園に死す』も同じような構造の映画。(本当はほとんど忘れていて、ピンクとグレーを見終わってから復習をした)
 見ていたものが映画の中の話だということが途中で明かされ、モノクロになるところも一緒だ。でも多分、導入の映画の部分はもっと短く、映画自体には不自然なひっかかりがある。自分の自伝映画を真実と異なり綺麗に作った監督が、後半真実を明かしていくような作りだから、前半と後半は分断されていない。

 満たされない。これはどういうことなんだろう。きっと監督は本当に限定された状況でできる限り撮りたいものを撮ったに違いない。でも、もし許されるならこう撮ってほしかった、というものは私の中にあるのだろうか。

 そんな時「ムービーウォッチメン」でピンクとグレーが取り上げられるということを知った。「ウィークエンドシャッフル」はたまに興味があるとPodcastで聴くくらいだが、せっかくだからもやもやした気持ちを言語化したいこともあり、感想メールも送った。

 聴いて、あーなるほどなあ、とだいぶすっきりした。
 私は映画をさほど見ないのでよくわからなかった「記号的」という前半の演出に関して説明してもらえたのと同時に、「キャラクターチェンジ」の理由や、「たぶん監督が伝えたかったと思われるメッセージ」も理解できた。番組でも「IQ下げすぎ」問題は挙げられ、「例えばもっと演技論のような方向で面白くできたのでは」とも言われていた。なるほど。

 聴きながら、私はそれまで不快感を持っていた「少しIQ下げる」って概念も、映画制作論として映画内で言及すれば面白いんじゃないだろうか、と思えてきた。りばちゃんをイラつかせ暴れさせるのは後半の菅田将暉ではなくて、前半のさらにIQ低めでデフォルメされた駄目すぎるりばちゃんの菅田将暉って方が納得できる気がする。
 原作は「ごっちを演じることによって同化する」わけだけど、映画は真のごっちは結局出てこないのだから「ごっちを演じることによって、自分を客観的に見せつけられてイラつく」というのが、あくまでりばちゃんの個人的な話として分かりやすい。

 というかあれだね。前半見せられていたりばちゃん(菅田くん)と同じようなことをリアルりばちゃん(中島くん)がやっている状態を見ているりばちゃん演じるごっち(中島くん)が見たかっただけなのかもね。それこそベタだね。