さようなら、ギャングたち

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 9月に久しぶりに更新したときには定期的に何か書こうと思っていたのに、ふと気がつくと2ヶ月あいたりする。だいぶ開いたので振り返ってみても、あまり覚えてないな。スカスカだな。

 2ヶ月半のうちの1ヶ月間くらい、奈良の市立図書館で借りた高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」を持ち歩いていた。なぜこの時期にこの本を借りたかというと、以前、NEWSの加藤シゲアキさんがラジオでこの本の話をしていたのを聞いて、どこかで引っかかっていたからだった。

 あれ、わたし、読んだっけ?

 中学以来の友人に「信頼できる読書家」がいて、私は10代の頃、彼女おすすめの本をよく借りていた。私は自分で思っているほど本を読んでおらず、彼女のように本当に読書を趣味としている人にあこがれのような物を抱いていた気がする。当時彼女なら「さようなら、ギャングたち」を読んでいただろう。果たして、私は借りて読んだのだろうか? タイトルは当然のように知っているのに、内容が全く思い出せない。とりあえず中身だけでも確認したい...。それで図書館をあたったのだった。

 図書館で見つけてから、私は通勤やちょっとした細切れの時間にこの本を開いた。いつもは栞やスピンを使うのに、この本に限っては印象と記憶だけでページを開いて読み進めていた。それは最初はたまたまだったのだけど、「ああ、この本は栞は意味が無い」と途中で思ったからだった。つぎへつぎへと読み進めることに意味が無い、いわば、味を感じないまま全部読んだところで、結局空腹のままで終わるようなそんな小説のような気がした。

 そんな読み方をしていると、文庫本一冊が中々読み終わらない。意味とかでなく感覚だけしか残らないから、おそらく意識してではなく同じ場所を何回も読んでいたと思う。毎日ほんの少しの空き時間に開いては、少しだけ読んで楽しんでいた。

 そこにあるのはあの頃で間違いなかった。10代の頃の私が憧れていた「カルチャー」の一つ。それは今で言う「サブカルチャー」ではなく、10代の私にとってそれがカルチャーだった。
 当時の私はこういう言葉の書ける人になりたかったのだと思う。小説でもあり詩でもあり、意味を求めると逃げられるようであるけれど、読み進めると連続した感覚として心に残る。「さようなら、ギャングたち」だったり、当時のビックリハウスのエンピツ賞のスターたちの書く、型にはまることの無い自由な文章だったり。読むだけで不思議な感覚を得られるそんな言葉を綴れる人になりたかったのだ。多分。

 結局、この本を私が当時読んだのかどうかはわからない。大島弓子のくだりにうっすらとなにかデジャヴに近い感覚があったけれど、そこだけ立ち読みした可能性もある。内容からして、読書家の友人が、私にこれを薦めても無理かもしれないと思った可能性も十分にある。
 でも、当時読んでいたかどうかは別として、50年近く生きてきた今この本を読んで覚えた感覚はたぶんこれから忘れないと思う。
 例によって、読むきっかけをくれた加藤さんに感謝。